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Novels

【長編小説】君の闇、光へと通ず ~現代異能探偵青春譚~

【第006話】追憶の女性

久川さんが薦めてくれた一冊は、ある女性ライターによる連載コラムをまとめたものだった。
週刊誌に掲載されていたエッセイのようで、日常の何気ない風景に、彼女なりの感じ方や考えが綴られていた。

哲学書をイメージしていたが、実際に手に取ってみると、肩肘張らずに読めた。
むしろ、その素朴さがかえって胸に染み入ってくる。

あれ以来、彼女の本を何冊か読んでいる。
どの作品も、語られる視点が変わらないことに驚かされる。

一貫している。
でも、押しつけがましくなく、歪みもない。
妙な偏りや、狭さがないのだ。

だからこそ、読み進めるほどに心地よかった。
普通なら、誰かの価値観が色濃く出れば必ずどこかで引っかかる。
だが、彼女の語りには、それがなかった。

――なぜだろう。

どうして彼女の視点だけが、こんなにもすんなりと胸に届くのか。
その理由を探るように、今日もページをめくっていた。

仮説はいくつか立ててみた。
が、どれも決め手に欠ける。

それでも、どこか確信に似た感覚が芽生えていた。
この“視点のあり方”こそが、自分の思考の停滞を抜ける鍵なのではないか――そんな予感が、静かに息づいている。

「ん~……」

「眉間、寄ってるわよ」

カウンターの向こうから久川さんの声。
からかうようでいて、どこか心配する響きがある。

「最近、その人の本ばっかり読んでるわね」

「ええ。気になることがあって」

「気になること?」

静かにうなずく。

「この人の文章は、視点がずっと一定なんです。でも、不思議とそれが窮屈じゃない。むしろ安心できる」

久川さんは顎に手を当て、うーん、と小さく唸る。

「なるほどね。面白いところに目をつけたじゃない」

「そうですか?」

「ええ。私もその人の考え方には惹かれたけど、“視点そのもの”について考えたことはなかったなぁ」

彼女は腕を組み、しばし黙り込んだ。
何かを思い出すように。

「……うん。もし理由があるとすれば、“距離感”かもしれない」

「距離感?」

「そう。物の見方って、角度を変えるだけじゃなくて、どれくらい“離れて見るか”でも変わるのよね」

「……“木を見て森を見ず”みたいな?」

「そう。たぶんだけど、その人は視点こそ一定でも、物事全体を少し引いた場所から見てたのかもしれない。だから偏らないし、感情に溺れない。だけど、ちゃんと伝わる」

思わず本を握る手に力がこもった。
たしかに、その人の本には――全体を見渡した静かなまなざしがあった。

「実はね、その人、昔、このお店によく来てたのよ」

「えっ……そうなんですか?」

「ええ、もう10年以上も前の話だけど」

「今は……?」

一瞬、久川さんの目が曇った。

「もう……この世にはいないの」

言葉が、静かに降りてきた。
店の空気がすっと沈んだように感じた。

「ちょうど、私がこのお店を引き継いだ頃だったわ。毎日、午後3時になると必ず現れて、決まって“スペシャルブレンド”を頼むの。何も言わずに、ノートを広げて、黙々と何かを書いてたわ」

「話したりとかは?」

「“ありがとう”“ごちそうさま”くらい。それも、まったく表情を変えずにね。正直、ちょっと近寄りがたい人だったわ」

「……そうなんですね」

「でも、ひとつだけ忘れられない出来事があるの」

久川さんの視線が、ふと窓際の席へと向いた。

「あれは、大学生くらいの子だったかな。元カレらしき男にしつこく言い寄られて、困ってる様子だったの。私も様子を見てたんだけど、なかなか介入できなくて……」

彼女は少し息をのんだ。

「そのとき、彼女がすっと立ち上がってね。ふたりの間に割って入って、こう言ったの。“相手の痛みを想像できないなんて、恥を知りなさい”って」

「……!」

「その声の静かさと迫力に、男は黙って出て行ったわ。私もその女の子も、ぽかんと見送るしかなかった」

久川さんは微笑んだ。
どこか、懐かしさと敬意が入り混じった表情だった。

「そのあと、何事もなかったように席に戻って、またノートを開いてたの。……本当に、何者だったのかしらね」

「おいくつくらいの方だったんですか?」

「五十代くらいに見えたけど、凛としていて美しかった。……あの空気をまとえる人、私は他に知らないわ」

久川さんの視線が、自分の手元にある本へと落ちる。

多くの余白。
選び抜かれた言葉たち。

その静けさが、確かにその人の視点を支えている気がした。

「いま思うと、あの人には揺るがない“芯”があった。どんな場面でも崩れない、確固とした場所に視点を置いていた……。本当に、ただのエッセイストだったのかしら」

この人は、全体の中で物事を見ていた。
どんな感情にも呑まれず、すべてを俯瞰しながら、それでも人の痛みに目をそらさなかった。
その視点が、自然と“本質”にたどり着いていたのだ。

だから、読むたびに胸に届いたのだろう。

「……やっぱり、この人の文章がすんなり届く理由は、そこにあるのかもしれません」

確信とは呼べない。
けれど、ぼんやりと漂っていた謎の輪郭が、ほんの少しだけ形を持ちはじめた気がした。

「知ろうとすればするほど距離は近くなる。でも、見えなくなるものもたくさんあるということなんでしょうね」

久川さんは、ふっと目元を緩めた。

「その感覚を持てたなら、それで十分よ」

久川さんはその本を手に取り、そっと撫でた。
まるで、過去の誰かのぬくもりが、まだそこに残っているかのように。

カウンター越しに漂うココアの甘い香りと、窓辺に差す夕暮れの光。
まだ答えは遠い。
けれど、その静けさに寄り添うように、かすかな光が胸の奥に灯った。

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