【第009話】小さな一歩
2025/10/01
*
「いや~、よく似合ってるじゃない」
「ふっ、馬子にも衣装とはよくいったものだ」
久川さんと雪峰さんは、込み上げる笑いを必死にこらえている。
自分は今、店員の制服を着せられ、二人の視線に晒されていた。
「かおりにも見せてあげよ~っと」
空かさずスマホを取り出し、パシャリ。
(……どうしてこんなことに)
*
遡ること2日前
「バイト……ですか?」
「そっ」
いつものカウンター席でココアをすする。
「先月、この近くに大きなビルが建ったの知ってる?」
「ええ、遠くからでも見えてました」
「それでね、ありがたいことにお客さんが増えたのよ。この辺りって意外とお店が少ないでしょ?」
「そうですね」
「そんなこんなで、最近は二人じゃ回しきれなくて……困ってるのよ」
珍しく、久川さんが切実な顔をしていた。
どうやら演技ではないらしい。
「一先ず、冬休み中だけでいいから、お願い!」
そう言って、自分に手を合わせてくる。
「う~ん、自分はいいですけど。母さんに聞いてみないと……」
「それは大丈夫!私に任せておきなさい!」
そう言うや否や、彼女はスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
しばらくの沈黙の後、どうやら相手につながったようだ。
「もしもし、かおり?」
「え~と、真也くん、借りていいかしら?」
「うんうん、そうそう、バイトバイト」
「えっ!いいの~」
「分かった!じゃあ、伝えとくね~」
「は~い、また電話する~」
あっけなく通話が終わる。
どうやら、当事者に一切、意思を確認することなく、運命は決まったようだ。
「いいってさ!」
「そんなことってあります?」
久川さんは得意げに微笑むが、自分は苦笑いを返すしかなかった。
「じゃあ、明後日からお願い。それまでに準備しておくから。」
(……準備?)
*
そして、現在に至るというわけだ。
(“準備”とは制服のことだったのか……)
「この店の女性陣にかかれば、すべては掌の上ってわけだな」
雪峰さんが遠い目をする。
「彼女たちの方が一枚も二枚も上手だ。あきらめろ」
肩を軽く叩かれる。
「よし!送信完了ッと!午後も張り切っていくわよ!」
「イエス・サ~」
「お願いします」
久川さんの掛け声に、それぞれが応じる。
「じゃあ、哲。真也くんにフロア対応を一通り教えてあげて」
「了解だ。まずは、やる事と流れの確認だな」
「分かりました。よろしくお願いします」
「今日は最低限だ。細かいことは明日以降にやる。分からないことは俺か藍にすぐ聞け。分からないことは恥ではない」
「はい」
「大丈夫よ。少しずつでいいから」
さりげない励ましに、胸の奥が少し軽くなる。
不安と期待が入り混じる中、Irisでの初バイトが始まった。
*
「ありがとうございました」
最後のお客を三人で見送る。
静かな店内に、エスプレッソの香りと夜の冷気が混じる。
「ふぅ~、今日も無事に乗り切ったわね」
背伸びをしながら久川さんがこちらを見る。
「なかなか良かったんじゃない? 丁寧に対応しようというのがちゃんと伝わってきたわ」
「ああ、初日としては上々だろう。少なくとも違和感はなかった」
「ありがとうございます」
褒められると、やっぱり照れくさい。
「どこで覚えたの? バイト、初めてなんでしょ?」
「はい。でも、二週間以上、久川さんの仕事を見てきましたから」
二人が目を合わせ、同時にこちらへ視線を向ける。
「これは……見込みがありそうね」
「そうだな」
(な、なんだその含みのある言い方……)
久川さんがカウンター内のノートPCに視線を落とす。
「それにしても、最近、軽食の注文が増えたわね」
「確かに」
「オフィスビルの影響か、スーツ姿のお客さんも多いわ」
「そうだな」
「食事メニュー、見直した方がいいかもね」
彼女は唇に指先を当てて考え込む。
女性客の割合は依然として多いが、確かに、スーツ姿の客もちらほら見かける。
「どうして見直すんですか?」
素朴な疑問を口にすると、久川さんは迷いなく答えた。
「お客さんの層が変わってきているからよ。このお店自体のテーマがあるとはいえ、それを壊さない範囲でニーズには応えていく必要があるわ」
「なるほど」
「ただ、無暗に変えればいいというものでもないわ。お店の雰囲気にどう影響するかも考えなければならない。このお店は、雰囲気を気に入って来てくれているお客さんが多いから」
「そうですね……」
(この店の雰囲気に合うメニューか……)
「……オムハヤシとか?」
「オムハヤシ??」
「ごめんなさい。ただ、パッと思い浮かんだだけで……」
「いや、アリかもしれない!」
「えっ?」
「哲、先代の頃、オムハヤシって、確かメニューにあったわよね?」
「そういえば、そんなものもあったな」
「これだったら、店の雰囲気も壊さないし、復刻っていうネタにもなる。……ねえ、どうして、オムハヤシが出てきたわけ?」
久川さんはまっすぐな視線を自分へ向けてきた。
「う~ん……母さんがたまに作ってくれるんですよね。自分は、結構、それが好きで」
「なるほど~、かおりかぁ」
彼女は髪をさらりと払った。
「今となってはレシピも分からないから、彼女に聞くのが良さそうね」
「だな」
「そうなれば善は急げ!さっそく招集することにするわ!」
「えっ!?」
雪峰さんと同時に声が出た。
胸の奥に、説明しづらいざわつきが広がる。
(母さんが来る……?)
来てほしいような、来てほしくないような、胸の中で相反する感情が渦を巻く。
それがいったい何を予感しているのか、自分でも分からなかった。
