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【長編小説】君の闇、光へと通ず ~現代異能探偵青春譚~

【第010話】母の面影

*

「なんだか感慨深いものがあるわね」

久川さんが、カウンターの中で小さくつぶやいた。

「何がですか?」

「この店に、君たち親子がそろうってことよ」

そんなに不思議なことだろうか?

「だだ、親子で店に来たってだけですよ」

「まあ、君にとってはそうかもしれないけどさ……生きているのが長くなると、思うところもあるのよ」

そう言って、彼女は自分の額を軽くつついた。

結局、母は仕事を終え次第、Irisに来ることになった。
終業後の片づけと翌日の準備を済ませ、今はそれぞれ作業をしながら、その到着を待っている。

母は精神科医だ。
駅前のクリニックで非常勤医をしている。

自分が知っているのは、それくらい。
過去を含め、母が自分のことを語ることはほとんどない。
父から聞くのは、たいてい父の主観たっぷりののろけ話で、真偽は定かでない。

この店に通い始めてから、知らない母の面影に触れることが増えた。
この空間には、自分の知らない母の記憶が、確かに染みついている。

母のことは知りたい。
でも、知ることで見方が変わってしまうのが、少し怖い。

信じてはいる。
親としての愛情は、確かに感じているからだ。

それでも、母がこの空間、この人たちと交わったとき、どんな化学反応が起こるのか……想像がつかない。
この緊張は、その心境の現れかもしれない。

――チリン。

店内の静寂を破って、ベルの澄んだ音が響く。

黒いロングコートに黒髪を揺らし、背筋の伸びた細身の女性が入ってきた。
入口からカウンター席まで、一切迷いのない足取り。
その席は、いつもなら自分が座っている場所だった。

「ごめんね、急に呼び出しちゃって……」

「構わない」

母は澄んだ声で短く応じる。

「何か飲む?」

「では、ココアを」

久川さんが静かにうなずき、カウンター奥で準備を始めた。
母はバッグから手帳を取り出し、ペンを走らせる。

やがて、器具の音にまじって甘い香りが漂う。

「おまたせ」

ココアの湯気がふわりと立ちのぼり、母は両手でカップを支える。
ひと口含み、そっと目を閉じる。
そして、やさしくソーサーへ戻した。

自宅で見慣れた仕草のはずなのに、今日は一つひとつの動作が印象に残る。

「おいしい」

その一言で、店内の空気が少しやわらぐ。
久川さんも、静かに笑みを返した。

この二人の間には言葉がなくとも通じ合う何かがあるのだろう。

「それで、オムハヤシだっけ?」

「そうなの。お店のメニューに復活させようと思って」

「負担にはならない?」

「今なら、何とかなると思う」

母は少し考え、やがて言った。

「書斎にレシピのノートがあったはず。探してきてもいい?」

「うん」

母はゆっくりと立ち上がり、雪峰さんの横を通りすがる。

「哲也、書斎に入ってもいい?」

「ああ、一緒に行った方がいいか?」

「たぶん大丈夫」

そう言って母は奥の扉へ消えていった。

「母さん、いつもあんな感じなんですか?」

「そうだけど……どうかした?」

「なんだか、今日の母さん、子供っぽく見えます」

久川さんと雪峰さんは顔を見合わせ、目を細めた。

「私、もう見てられないわ……」

そう言うと彼女は涙をこらえるようにうつむき、目元に手を当てた。
雪峰さんも神妙な表情で、それを見つめている。

「もう……いいんじゃないかしら?」

「う~ん……」

雪峰さんは険しい表情で腕を組む。
久川さんはそっと目尻をなでた。

「あなたたちの想いも分かる。……でも、この子は聡いから、そのうち気づくわよ」

(何の話を……?)

二人の会話は、自分だけ聞き取れない言語で進んでいるようだった。
言葉は耳に届いているはずなのに、頭の中をすり抜けていく。

「それに、ここまで事態が進んでいる。もう、この子を遠ざける理由もないでしょう」

久川さんがやわらかくたしなめた。

タイミングを見計らったかのように、カウンター奥の扉がそっと開く。

「まあ、頃合いでしょうね……」

そこへ、母がノートを抱えて戻ってきた。

「姉さん……」

(姉さん!?)

「あくまで、人間の浅知恵にすぎなかったということね」

母は寂しげに笑った。
けれど、そこにはいつもの緊張感はない。

「藍、ありがとう。やっと決心がついたよ」

久川さんはゆっくりとうなずく。

「この子の親として、私が話します」

その表情には、強い決意が宿っていた。

「藍、二階のリビングを借りていいかな?」

「何言ってるの。あなたの家じゃない」

「……そうだったわね」

そして母は、自分の方へまっすぐ向き直った。

「真也」

「?」

「あなたにね、伝えなければならないことがあるの」

その瞳に込められた意味を、自分は受け止められるのだろうか――。

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