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【長編小説】君の闇、光へと通ず ~現代異能探偵青春譚~

【第008話】寒空の告白

扉を潜ると、そこには見慣れぬ景色が広がっていた。

「いくぞ、ついてこい」

雪峰さんが短く言い、階段を上り始める。
一歩遅れて足を踏み出すと、古い木の段がわずかに軋んだ。

壁という壁がすべて、本棚で覆われている。
まるで、この建物自体が本で組み上げられているかのようだ。
背表紙が視界を埋め、積み重ねられた物語たちが、静かに圧迫感を放つ。
階段を昇るたびに、その圧はじわじわと増していった。

二階、三階と上がり――

「ここだ」

殺風景な鉄の扉に、雪峰さんが手をかける。
軋む音とともに開かれた瞬間、朱色のまぶしい光が雪崩れ込んだ。

「どうした?」

扉の前で立ち止まったままの自分を、彼が振り返る。
光の向こうから、冷たい空気と街の匂いが入り込み、胸の奥を一気に冷やす。

「こっちへ来い」

柵に寄りかかった雪峰さんが、軽く手招きをする。
足を踏み出すと、影がわずかにざわめいた気がした。

ここはビルの四階ほどの高さだろうか。
大通りに面していて、周囲には背の高い建物が少ない。
冬の空気が澄み、都会とは思えないほどの解放感があった。

「俺の憩いの場だ」

そう言うと、ポケットから煙草を取り出す。
マッチを擦ると、硫黄の匂いが一瞬鼻をかすめる。
炎を移し、燃え尽きた軸木を指先で弾き、缶の中へと放った。
赤い火がじっと息づき、白い煙が冬空に溶けていく。

「いい眺めだろ?」

「ええ、こんな場所があるなんて」

雪峰さんは通りに目をやり、柵に体を預ける。

「ここから見える景色は、なんてことはない、ただの日常だ」

「……」

「どんなことがあろうと、この空も、景色も、いつもそこにある」

その声は、誰に向けるでもなく、自分自身に言い聞かせるようだった。
紫煙の向こうで、雪峰さんの視線が遠くを射抜く。

「君は、君が抱える現象を恨むか?」

「……恨む?」

「ああ。もし、その現象がなければ、君は平穏な学生生活を送れていたはずだ」

唐突な問いに、胸の奥がざわりと揺れる。
思いが像を結ばず、通りの車の走行音だけが響く。

「俺は、この現象を恨んだよ」

「えっ?」

「俺も、君ぐらいの頃に出会った。内容は君とは違うがな」

「……雪峰さんも?」

「ああ」

一呼吸の沈黙。
くゆる煙が風に千切れ、白い筋を描いて消えていく。

「この現象のことを、俺たちは“異能”と呼んでいる」

「異能……」

その言葉は、冬空の冷たさとは別の鋭さを持って胸に刺さった。

「そうだ。潜在能力、と言えば聞こえはいい。だが、これはそんな生易しいもんじゃない」

「というと?」

「人の人生を台無しにするほどの力だ。君も薄々気づいてるんじゃないか?」

あの日、影へ手を伸ばした瞬間の感触が蘇る。
冷たく、深く、吸い込まれるような――あれで何かが終わっていたかもしれない。

背筋に冷たいものが走り、思わず手がわずかに震える。

「思い当たる顔だな。自分で向き合い方を見つけなければ、いずれ飲み込まれる」

雪峰さんは煙草を吸い切り、赤い火種を缶へと落とす。

「そして、異能が発動するのは自分だけとは限らない」

その声には、普段の冷静さの奥に怒りが混じっていた。

「俺は……自分の異能で、家族を失った」

耳の奥で風の音が遠のく。
つま先から冷たい刃が這い上がり、鼓動が一瞬途切れた気がした。

「当時の俺は、異能を自覚すらしていなかった。……いや、誤解していたと言う方が正しいな」

「誤解……?」

「ああ。その誤解が、無自覚な暴走を招いた。そして、気づいた時には、両親が――消えていた」

淡々と語られる声の奥に、消しきれない痛みが混じる。

「何が起きたかも分からず、無心で探したよ。必死に、何日も……」

彼は遠い記憶を辿るように視線を落とす。
沈黙の間、吐く息だけが白く浮かぶ。

「それでも、気配すら見つからなかった。数週間経って、ようやく悟った。俺の異能が奪ったんだと」

「……」

「人の命を。人の人生を。大切な人たちを――」

そこから先の言葉は形にならず、冬空に溶けて消えていった。

やがて、二本目の煙草に火がつく。
マッチの小さな炎に照らされる横顔は、どこか寂しげだった。

紫煙が夜気に溶ける頃、日は沈み、儚い月明かりが街を青白く照らしていた。

「辛気臭い話で悪かったな」

「いえ……」

心臓がきゅっと締めつけられ、自然に声が小さくなる。

「俺のような思いは、俺だけで十分だ」

その声には、揺るがぬ決意が宿る。

「君の異能も、人の存在を消す可能性を秘めている。それは分かってるだろ?」

「……はい」

「だからこそ、向き合え。付き合い方を見つけろ。それは君だけじゃなく、周りの人を守ることにもつながる」

答えを探すように唇を動かすが、形を成さず、ほどけては消えていく。

「よく考えることだ」

「はい」

事の重大性だけが心の底へと静かに沈んでいく。
胸には返したい思いがあったのに、言葉は形を結ばず、「はい」だけが零れ落ちた。

「話は終わりだ。下に行けば、藍の特製ケーキにありつけるかもしれないぞ」

「……それはいいですね」

「じゃあ、行くか」

雪峰さんは名残惜しそうに白煙を吐き、火種を缶に落として扉へ向かう。
その背中は、来る時よりもはるかに大きく見えた。

闇の中で、影が静かにざわめく。
それは風の戯れか――それとも、何かを告げようとしているのか。

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