【第008話】寒空の告白
2025/10/01
扉を潜ると、そこには見慣れぬ景色が広がっていた。
「いくぞ、ついてこい」
雪峰さんが短く言い、階段を上り始める。
一歩遅れて足を踏み出すと、古い木の段がわずかに軋んだ。
壁という壁がすべて、本棚で覆われている。
まるで、この建物自体が本で組み上げられているかのようだ。
背表紙が視界を埋め、積み重ねられた物語たちが、静かに圧迫感を放つ。
階段を昇るたびに、その圧はじわじわと増していった。
二階、三階と上がり――
「ここだ」
殺風景な鉄の扉に、雪峰さんが手をかける。
軋む音とともに開かれた瞬間、朱色のまぶしい光が雪崩れ込んだ。
「どうした?」
扉の前で立ち止まったままの自分を、彼が振り返る。
光の向こうから、冷たい空気と街の匂いが入り込み、胸の奥を一気に冷やす。
「こっちへ来い」
柵に寄りかかった雪峰さんが、軽く手招きをする。
足を踏み出すと、影がわずかにざわめいた気がした。
ここはビルの四階ほどの高さだろうか。
大通りに面していて、周囲には背の高い建物が少ない。
冬の空気が澄み、都会とは思えないほどの解放感があった。
「俺の憩いの場だ」
そう言うと、ポケットから煙草を取り出す。
マッチを擦ると、硫黄の匂いが一瞬鼻をかすめる。
炎を移し、燃え尽きた軸木を指先で弾き、缶の中へと放った。
赤い火がじっと息づき、白い煙が冬空に溶けていく。
「いい眺めだろ?」
「ええ、こんな場所があるなんて」
雪峰さんは通りに目をやり、柵に体を預ける。
「ここから見える景色は、なんてことはない、ただの日常だ」
「……」
「どんなことがあろうと、この空も、景色も、いつもそこにある」
その声は、誰に向けるでもなく、自分自身に言い聞かせるようだった。
紫煙の向こうで、雪峰さんの視線が遠くを射抜く。
「君は、君が抱える現象を恨むか?」
「……恨む?」
「ああ。もし、その現象がなければ、君は平穏な学生生活を送れていたはずだ」
唐突な問いに、胸の奥がざわりと揺れる。
思いが像を結ばず、通りの車の走行音だけが響く。
「俺は、この現象を恨んだよ」
「えっ?」
「俺も、君ぐらいの頃に出会った。内容は君とは違うがな」
「……雪峰さんも?」
「ああ」
一呼吸の沈黙。
くゆる煙が風に千切れ、白い筋を描いて消えていく。
「この現象のことを、俺たちは“異能”と呼んでいる」
「異能……」
その言葉は、冬空の冷たさとは別の鋭さを持って胸に刺さった。
「そうだ。潜在能力、と言えば聞こえはいい。だが、これはそんな生易しいもんじゃない」
「というと?」
「人の人生を台無しにするほどの力だ。君も薄々気づいてるんじゃないか?」
あの日、影へ手を伸ばした瞬間の感触が蘇る。
冷たく、深く、吸い込まれるような――あれで何かが終わっていたかもしれない。
背筋に冷たいものが走り、思わず手がわずかに震える。
「思い当たる顔だな。自分で向き合い方を見つけなければ、いずれ飲み込まれる」
雪峰さんは煙草を吸い切り、赤い火種を缶へと落とす。
「そして、異能が発動するのは自分だけとは限らない」
その声には、普段の冷静さの奥に怒りが混じっていた。
「俺は……自分の異能で、家族を失った」
耳の奥で風の音が遠のく。
つま先から冷たい刃が這い上がり、鼓動が一瞬途切れた気がした。
「当時の俺は、異能を自覚すらしていなかった。……いや、誤解していたと言う方が正しいな」
「誤解……?」
「ああ。その誤解が、無自覚な暴走を招いた。そして、気づいた時には、両親が――消えていた」
淡々と語られる声の奥に、消しきれない痛みが混じる。
「何が起きたかも分からず、無心で探したよ。必死に、何日も……」
彼は遠い記憶を辿るように視線を落とす。
沈黙の間、吐く息だけが白く浮かぶ。
「それでも、気配すら見つからなかった。数週間経って、ようやく悟った。俺の異能が奪ったんだと」
「……」
「人の命を。人の人生を。大切な人たちを――」
そこから先の言葉は形にならず、冬空に溶けて消えていった。
やがて、二本目の煙草に火がつく。
マッチの小さな炎に照らされる横顔は、どこか寂しげだった。
紫煙が夜気に溶ける頃、日は沈み、儚い月明かりが街を青白く照らしていた。
「辛気臭い話で悪かったな」
「いえ……」
心臓がきゅっと締めつけられ、自然に声が小さくなる。
「俺のような思いは、俺だけで十分だ」
その声には、揺るがぬ決意が宿る。
「君の異能も、人の存在を消す可能性を秘めている。それは分かってるだろ?」
「……はい」
「だからこそ、向き合え。付き合い方を見つけろ。それは君だけじゃなく、周りの人を守ることにもつながる」
答えを探すように唇を動かすが、形を成さず、ほどけては消えていく。
「よく考えることだ」
「はい」
事の重大性だけが心の底へと静かに沈んでいく。
胸には返したい思いがあったのに、言葉は形を結ばず、「はい」だけが零れ落ちた。
「話は終わりだ。下に行けば、藍の特製ケーキにありつけるかもしれないぞ」
「……それはいいですね」
「じゃあ、行くか」
雪峰さんは名残惜しそうに白煙を吐き、火種を缶に落として扉へ向かう。
その背中は、来る時よりもはるかに大きく見えた。
闇の中で、影が静かにざわめく。
それは風の戯れか――それとも、何かを告げようとしているのか。
