【第017話】運命の出会い
2025/11/22
*
あの日以来、黒猫は姿を見せなくなった。
“来る者を拒まず、去る者を追わず”
そう決めている自分でも、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚が残っていた。
――友達がいなくなるって、こういう感じなのかもしれない。
そんなことを思いながら、土曜の昼下がり、Irisへと向かって歩く。
バイトを始めてから、もうすぐ一ヶ月。
いろんな出来事があり過ぎて、最初の頃がもうずっと昔のように思える。
店の前まで来ると、扉の向こうから女性の話し声が聞こえてきた。
(休憩時間のはずだよな?)
雪峰家の玄関へ回り込み、そっと店内を覗く。
久川さんと、見知らぬ女の子がカウンター越しに何かを話している。
(……新しいバイトの子、かな?)
胸の奥で、少しだけ小さな波が立つ。
けれど、俺は俺だ。いつも通りにやるだけ。
そう思い直し、玄関の扉を静かに開いた。
*
制服に着替え、カウンター裏の扉の前に立つ。
まだ中から笑い声が聞こえる。
女性同士の会話に割り込むのも気が引けるが――
(まあ、準備もあるし、入るしかないか)
ドアを開けると、談笑がピタリと止み、視線がこちらに集まった。
「こんにちは、自分、準備しておきますね」
軽く会釈して、掃除用具に手をかける。
「ちょうど良かったわ」
久川さんがポンと手を打った。
「?」
「今日からバイトで入る来栖結月ちゃんよ」
その名の方へ視線を向ける。
サラッとした漆黒の髪。
きりっとした目元。
どこか冷たさを帯びた静かな美しさ。
“容姿端麗”という言葉が頭に浮かぶ。
「はじめまして。日影です」
空かさず挨拶する。
「真也くんと同い年みたいだから、仲良くしてあげてね」
久川さんの言葉に、来栖はわずかに頷いた。
「じゃあ、結月ちゃんの制服を合わせてくるから、真也くんは店内お願いできる?」
「了解です」
「ありがとう。結月ちゃん、こっちへ」
二人が奥へ消えると、急に静けさが戻った。
「ふぅ……」
小さく息を吐く。
俺が入った途端、会話が止まった気もするが――
(まあ、気にしても仕方がない。俺は淡々とやるだけだ)
クロスを濯ぎ、いつものテーブル拭きへと向かった。
*
備品の補充を終える頃、二人が戻ってきた。
来栖はIrisの制服に袖を通している。
控えめな照明に、白いブラウスの襟元がやわらかく光を反射していた。
その立ち姿は凛としていて、思わず見惚れてしまう。
「ジロジロ見ないでよ」
投げやりに言葉が放たれる。
「ごめん、見とれてた」
言葉が出た瞬間、自分でも驚いた。
来栖は一瞬目を大きくしたが、すぐに視線を逸らす。
頬にわずかな赤み――
怒っているというより、照れているようにも見えた。
「なるほど、かおりが言ってたのはこういことね」
久川さんが小さく笑う。
(……俺、何かやらかした?)
「素直なのは君の美徳だけど、反応に困っちゃう時もあるのよね」
「ど、どういう意味ですか?」
「しかも、自覚なし」
久川さんの肩が軽く揺れる。
「まあいいわ。午後の開店まで時間がないし、フロア対応をざっと説明しちゃうわね」
「はい」
そう言って、仕事の確認を始める。
(何だか、俺、アウェーだな)
*
開店すると、来栖は別人のように明るく笑い、丁寧に接客をしていた。
初日とは思えないほど、自然でテキパキとした動き。
そして、客の表情を読み取り、言葉を添える。
(……こりゃ、負けてられないな)
奥の窓際のお客さんが店員を呼びたそうにしている。
向かおうとすると、すでに彼女が動いている。
(視野も広いと……)
これは、自分がクビになる日も近いかもしれない。
「店員さん、スペシャルブレンドください」
「はい、スペシャルブレンドですね。お持ちしますので、少々お待ちください」
気を取り直して、オーダーをカウンターへと伝えた。
*
閉店後――
「どうだった?」
久川さんの問いに、来栖は少し息を弾ませて答える。
「とっても楽しかったです」
その笑顔には、緊張と達成感が混ざっていた。
「そう、それなら良かった」
久川さんも穏やかな笑顔を彼女へ送る。
「仕事ぶりもとっても良かったわ。お客さんの様子をよく見ててくれたから、安心してカウンターの仕事ができたわ」
「そう言ってもらえてうれしいです」
来栖も安心した表情を浮かべる。
(すごいな、たった一日で久川さんの心を掴むとは……)
「でも、無理して飛ばし過ぎないようにね。三人いるから、もっと力を抜いても大丈夫よ」
そう言って、久川さんは彼女の肩を揉む。
「大丈夫ですよ、無理はしてないので。明日も頑張ります」
二人の会話が、冬の店内に柔らかく響く。
ブラインドを下げようと手を伸ばすと、窓ガラス越しに冷気が伝わってくる。
(今日の俺、空気だったな……)
結露したガラスを指でこする。
気のせいかもしれないが、そこに写った来栖と一瞬視線が合った気がした。
これが、俺と来栖結月の最初の出会いだった。
