【第016話】ねこの細道
2025/11/15
しゃがみ込みながら尋ねた。
「君はどこから来たんだい?」
黒猫は何を言われてるか分からないという感じで首を傾げる。
「ごめん、そうだよね」
猫に問いかけたところで返事があるわけない。
そんなことは分かってるんだが――
「あのさ、“自然と溶け込む”って、どんな感じだと思う?」
黒猫は大きな目を細め何かを考えるような素振りを見せた。
そして、次の瞬間――
ぱたんと倒れ込み、手足を投げ出して日向ぼっこを始めた。
柔らかな日差しに包まれ、表情はとろけるように穏やかだ。
まるで温泉に浸かった人間のような、見事な脱力と安らぎ。
(……なるほど、そういうことか)
自分は“どうすれば溶け込めるか”を、ずっと“考えて”いた。
でも、違う。
“考える”こと自体が、“溶け込めない”原因だったんだ。
脱力して、無心で、ただそこにいる。
それはまるで、世界に身を委ねるように。
「ありがとう。何か分かった気がする」
黒猫はその体勢のまま、尻尾をふわりと一振りした。
(“どういたしまして”ということかな?)
言葉は通じない。
それでも、なぜか、打てば響くような気がする。
――猫から教わることになるなんて、世の中分からないものだ。
*
それからというもの、この小さなお客さんとの交流が始まった。
Irisの屋上に行くと、“彼女”もどこからともなく現れる。
確証はないが、漂う気品から、何となくそう呼んでいる。
自分が一方的に語りかけ、彼女は静かに聞いている。
ときおり、尻尾の動きやまばたきで何かを伝えようとする。
そんな気がするから、自分も考える。
そして、考えたことをまた伝える。
“そうだよ”と頷かれている気がするときもあれば、“違うよ”とたしなめられている気がするときもある。
そんなやり取りを繰り返すうちに、不思議と通じ合っているような感覚が芽生えた。
言葉なんて要らない。
ただ、心がふと重なる瞬間がある。
その心地よさが、いつの間にか自分の日々の憩いになっていた。
*
あれから2週間。
試行錯誤の末、やっと心界を歩けるようになった。
まだ、足元はおぼつかないが、自分でも一歩前進できた実感があった。
彼女と過ごす時間が、その感覚を育ててくれたのかもしれない。
今度、ミルクでもご馳走しよう。
バイトの休憩時間。
今日も屋上へとやってきた。
しばらく、景色を眺めていると、黒猫もそっと現れる。
いつものように一定の距離を保ち、こちらを見つめている。
近づきすぎると、すぐに警戒の唸り声をあげる。
この間合いが、彼女なりの“安心できる距離”なのだろう。
自分もそれを尊重し、その境界を越えないようにしている。
屋上の扉が開く音がした。
久川さんだ。
「今日もここにいたのね。寒くないの?」
「寒いですけど、コート着てますから」
「そう。……あら?」
久川さんの視線が黒猫に向く。
黒猫は気まずそうに顔をそらした。
「かわいいお客さんね」
そう言って近づいていく。
黒猫は慌てて後ずさるが、まるで見えない壁に阻まれたように、足が止まった。
久川さんが両手を伸ばし、そっと抱き上げる。
黒猫は諦めたように手足をだらりと伸ばした。
久川さんは黒猫の瞳をじっと見つめ
「あなた……」
何かを言いかけた。
しばしの沈黙のあと
「いい毛並みしてるわね」
そう言うと、微笑みながら腕の中に抱き直す。
黒猫は“助けて”とでも言いたげに、こちらを見た。
自分は両手を広げて、“無理だ”とジェスチャーで返す。
(さっき、一瞬、影がざわめいたのは気のせいか?)
黒猫の様子とは裏腹に、久川さんは満足げだ。
「そうそう、一つ相談があるんだけど」
「何ですか?」
「バイトを増員しようと思ってるんだけど、どう思う?」
「増員、ですか? ずいぶん急ですね? 三人でも十分回ってますけど……」
素直な疑問をぶつける。
「仕事が入ったのよ。哲也はしばらくそっちにかかり切りになるから、もう一つの保険と一緒にかけときたくてね」
「なるほど。久川さんは?」
「たぶん出番はないかな。今回は、あいつへの指名依頼だから」
へぇ、そんな依頼もあるのか。
「了解です。もう一つの保険も気になりますけど」
「ふふ、それはお楽しみね」
久川さんは得意げな笑みを浮かべた。
ああ、何となく分かった気がする。
「それじゃ、この子にミルクをご馳走しなきゃね」
そう言って、黒猫を抱いたまま建物の中へと戻っていった。
(猫さん、大丈夫かな?)
自分も慌てて、あとを追う。
止まっていた歯車が静かに回り始めた。
