【第015話】始まりの気配
2025/11/08
*
息ができない――
いったい何だっていうんだ。
もがいても沈んでいくばかり。
光も音もない。
圧が全身を締め付け、押しつぶされそうだ。
どこまでも落ちていく。
……俺は、死ぬのか?
*
「はっ」
目を開けた瞬間、息が荒く漏れた。
見回すと、そこは雪峰家のリビング。
「戻ってきたようね」
「はぁ、はぁ……」
夢ではないらしい。
あの圧迫感、あの恐怖が、まだ身体にこびりついている。
「どうだった?」
母が背中をさすりながら、心配そうに覗き込む。
「はぁ、はぁ……何も……できなかった……」
「それは当然だ」
向かいのソファーに腰掛ける雪峰さんは何事もなかったかのように平然としている。
「……雪峰さんは何ともないんですか?」
「心界を歩く年季が違う。それに、あれは自分の心界だからな」
彼は組んだ指を軽く動かしながら続けた。
「他人の心界は誰であろうと、あんな感じだ。たとえ、どんなに親しい関係でもな」
「そうはいっても、息もできない、身体も動かせない。どうすれば……」
全身がまだ震えている。
恐怖が抜けきらない。
「そうだな。“何もしようとするな”――それがコツだ」
「えっ?」
毎度のことながら、何を言われてるのか分からない。
「心界に入ったら、まず目を閉じろ。そして、水に浮かぶような感覚で全身の力を抜くんだ。よし、次は二十秒だ」
「ちょ、待っ――」
*
いきなりかよ!
えっと、まず目を閉じて。
次に、脱力、脱力……
……ん?
背中のほうに、ほんのり支えられているような感覚がある。
息苦しさは残るが、何かに抱かれているような――
たしかに、“水に浮かぶ”というのは、こういうことかもしれない。
*
耳の奥で、水面が割れるような音がした。
「あれっ……?」
まぶしく光が差し込んでくる。
「どう?」
「……浮いた」
母は静かに微笑んだ。
「いい感じだな。次は、自然に溶け込むような感覚でもっと身体の力を抜け」
「え、溶け……?」
「じゃあ、三十秒だ」
質問する間もなく、再び世界が反転した。
*
「今日はこれくらいにしときましょう」
「そうだな」
そう言うと雪峰さんは立ち上がり、リビングから出ていった。
どれだけ心界を往復したのか、もう分からない。
それでも、壁時計に目を向けると、一時間ほどしか経っていなかった。
身体が鉛のように重い。
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
「座ってなさい」
母はそう言って、キッチンへ向かった。
ソファーに沈み込むと、張り詰めていた糸がふっと切れる。
「はぁ……」
天井を見上げると、光が少し滲んで見えた。
甘い香りがふわりと漂う。
「はい」
目の前に置かれたカップから、湯気が立ちのぼっていた。
両手で包み込み、一口。
ほのかな温もりが喉を通って、胸の奥まで広がる。
「母さんのココアも久しぶりだね」
「そう?」
「そうだよ。俺、母さんのココア好きだったのに」
「そういえば、小さいころはよく作ってあげたわね」
不思議と、さっきまでの重さが抜けていく。
「母さんのココアって何かしてるの?」
「何よ、いきなり」
「いや、異能でも込めてるのかなって」
「そんなわけないでしょ」
母は小さく笑って、対面のソファーに腰を下ろした。
「まあ、その軽口が出るなら大丈夫そうね」
「母さんがこんなスパルタだったとは知らなかったよ」
「何言ってるの? こんな手厚いスパルタがあるわけないでしょ」
母さんと軽口が交わせる日が来ようとは。
「“百聞は一見に如かず” 異能は説明できるものじゃない。繰り返し経験して、自分で感覚を掴むしかない」
「うん……今日、よく分かったよ」
「異能者だと、不意に他人の心界に巻き込まれることもある。入り方、歩き方、出方は身につけなければならない。今回は哲也だったからいいけど、誰も助けてくれない時もあるわ」
母の声は穏やかだったが、芯の強さがあった。
「これは、あなたの異能と向き合う一歩であり、自分を守る術でもある。そう思ってやりなさい」
「分かった」
「よろしい。……でも、焦らずにね。少しずつでいいから」
二人してココアを口に運ぶ。
その温もりが、ようやく現実に戻ってきたことを教えてくれた。
*
屋上に来ると、雲一つない青空が広がっていた。
(“自然に溶け込むような感覚”か……)
浮く感覚までは掴めた。
でも“溶け込む”は分からなかった。
考えれば考えるほど力が入り、また沈んでしまう。
ためしに、両手を広げてみる。
(……)
「ミャー」
思わず肩が飛び跳ねる。
振り返ると、黒猫が背後にちょこんと座っている。
「もう、脅かすなよ」
そう言うと、猫も驚いたように目を丸くした。
漆黒の毛並みに、ワインレッドの瞳。
「君は美人さんだね」
猫は小さく首を傾げ、満更でもなさそうに尻尾を揺らした。
(妙に表情が豊かな猫だな)
――この日、俺は不思議な気配をまとった一匹の黒猫と出会った。
その瞳の奥に、自分と似た気配を感じたのは気のせいではないのだろう。
