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【長編小説】君の闇、光へと通ず ~現代異能探偵青春譚~

【第015話】始まりの気配

息ができない――

いったい何だっていうんだ。

もがいても沈んでいくばかり。

光も音もない。

圧が全身を締め付け、押しつぶされそうだ。

どこまでも落ちていく。

……俺は、死ぬのか?

「はっ」

目を開けた瞬間、息が荒く漏れた。
見回すと、そこは雪峰家のリビング。

「戻ってきたようね」

「はぁ、はぁ……」

夢ではないらしい。
あの圧迫感、あの恐怖が、まだ身体にこびりついている。

「どうだった?」

母が背中をさすりながら、心配そうに覗き込む。

「はぁ、はぁ……何も……できなかった……」

「それは当然だ」

向かいのソファーに腰掛ける雪峰さんは何事もなかったかのように平然としている。

「……雪峰さんは何ともないんですか?」

「心界を歩く年季が違う。それに、あれは自分の心界だからな」

彼は組んだ指を軽く動かしながら続けた。

「他人の心界は誰であろうと、あんな感じだ。たとえ、どんなに親しい関係でもな」

「そうはいっても、息もできない、身体も動かせない。どうすれば……」

全身がまだ震えている。
恐怖が抜けきらない。

「そうだな。“何もしようとするな”――それがコツだ」

「えっ?」

毎度のことながら、何を言われてるのか分からない。

「心界に入ったら、まず目を閉じろ。そして、水に浮かぶような感覚で全身の力を抜くんだ。よし、次は二十秒だ」

「ちょ、待っ――」

いきなりかよ!

えっと、まず目を閉じて。

次に、脱力、脱力……

……ん?

背中のほうに、ほんのり支えられているような感覚がある。
息苦しさは残るが、何かに抱かれているような――

たしかに、“水に浮かぶ”というのは、こういうことかもしれない。

耳の奥で、水面が割れるような音がした。

「あれっ……?」

まぶしく光が差し込んでくる。

「どう?」

「……浮いた」

母は静かに微笑んだ。

「いい感じだな。次は、自然に溶け込むような感覚でもっと身体の力を抜け」

「え、溶け……?」

「じゃあ、三十秒だ」

質問する間もなく、再び世界が反転した。

「今日はこれくらいにしときましょう」

「そうだな」

そう言うと雪峰さんは立ち上がり、リビングから出ていった。

どれだけ心界を往復したのか、もう分からない。
それでも、壁時計に目を向けると、一時間ほどしか経っていなかった。

身体が鉛のように重い。
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

「座ってなさい」

母はそう言って、キッチンへ向かった。

ソファーに沈み込むと、張り詰めていた糸がふっと切れる。

「はぁ……」

天井を見上げると、光が少し滲んで見えた。

甘い香りがふわりと漂う。

「はい」

目の前に置かれたカップから、湯気が立ちのぼっていた。

両手で包み込み、一口。
ほのかな温もりが喉を通って、胸の奥まで広がる。

「母さんのココアも久しぶりだね」

「そう?」

「そうだよ。俺、母さんのココア好きだったのに」

「そういえば、小さいころはよく作ってあげたわね」

不思議と、さっきまでの重さが抜けていく。

「母さんのココアって何かしてるの?」

「何よ、いきなり」

「いや、異能でも込めてるのかなって」

「そんなわけないでしょ」

母は小さく笑って、対面のソファーに腰を下ろした。

「まあ、その軽口が出るなら大丈夫そうね」

「母さんがこんなスパルタだったとは知らなかったよ」

「何言ってるの? こんな手厚いスパルタがあるわけないでしょ」

母さんと軽口が交わせる日が来ようとは。

「“百聞は一見に如かず” 異能は説明できるものじゃない。繰り返し経験して、自分で感覚を掴むしかない」

「うん……今日、よく分かったよ」

「異能者だと、不意に他人の心界に巻き込まれることもある。入り方、歩き方、出方は身につけなければならない。今回は哲也だったからいいけど、誰も助けてくれない時もあるわ」

母の声は穏やかだったが、芯の強さがあった。

「これは、あなたの異能と向き合う一歩であり、自分を守る術でもある。そう思ってやりなさい」

「分かった」

「よろしい。……でも、焦らずにね。少しずつでいいから」

二人してココアを口に運ぶ。
その温もりが、ようやく現実に戻ってきたことを教えてくれた。

屋上に来ると、雲一つない青空が広がっていた。

(“自然に溶け込むような感覚”か……)

浮く感覚までは掴めた。
でも“溶け込む”は分からなかった。
考えれば考えるほど力が入り、また沈んでしまう。

ためしに、両手を広げてみる。

(……)

「ミャー」

思わず肩が飛び跳ねる。
振り返ると、黒猫が背後にちょこんと座っている。

「もう、脅かすなよ」

そう言うと、猫も驚いたように目を丸くした。

漆黒の毛並みに、ワインレッドの瞳。

「君は美人さんだね」

猫は小さく首を傾げ、満更でもなさそうに尻尾を揺らした。

(妙に表情が豊かな猫だな)

――この日、俺は不思議な気配をまとった一匹の黒猫と出会った。
その瞳の奥に、自分と似た気配を感じたのは気のせいではないのだろう。

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