【第012話】明日への扉
2025/10/18
「言いたいことはたくさんある。……でも」
溢れそうになる涙を必死にこらえる。
「俺は母さんの子だよ。この気持ちが分からないわけないじゃん」
「真也……」
自然となった笑顔から涙が零れ出る。
母の目もまた、潤んで揺れている。
「それに、俺はそんなにやわじゃない。母さんだって知ってるでしょ?」
「……ええ、そうね」
穏やかに微笑む母の目から一粒の雫が静かに流れ落ちた。
その瞬間、久川さんが母をギュッと抱きしめる。
押し殺された感情たちが雫となってテーブルを濡らす。
俺は母が涙を流す姿を生まれて初めて目撃した。
*
「落ち着いた?」
「……うん」
久川さんの問いかけに、母は目をこすりながら答える。
抱擁を解き、深く息を吐き出すと、少しずつ顔に光が戻ってきた。
目が合い、互いに小さな微笑みを交わすと、母も静かにうなずき返してくれた。
「良かったわね」
久川さんの声は、まるで春先の風のように柔らかい。
「ああ……本当に」
母は憑き物が落ちたかのように穏やかな顔でつぶやいた。
「哲也、藍、ありがとう」
「お互い様だろ」
「そうね」
三人の間に流れる空気も、心なしか柔らかくなったようだ。
「それに、お礼を言うのは私たちじゃないでしょ?」
母の視線が自分の瞳をまっすぐに射抜く。
「真也、本当にありがとう」
「何言ってるの。お礼を言わなきゃいけないのはこっちだよ」
「それでも……ありがとう」
母の声は震えていた。
自分の胸の中にも、言葉にならない想いが渦を巻いている。
何かを言わなければと思うが、静かに微笑んでうなずくことしかできなかった。
「さて!」
久川さんが手をポンと打ち、空気を切り替える。
「今日は何のために集まったんでしょう? 覚えてる?」
(そうだった。オムハヤシを復活させるのだった)
「すっかり忘れてたわ。材料はあるの?」
母も顔をほころばせながら答える。
「メッセージでもらってたものは、ちゃんと用意してあるわ」
さすが久川さん。段取りは抜群だ。
「分かった。じゃあ、レシピ帳と見比べながら進めましょう」
二人がキッチンへと消えていく。
だが、座って待っているだけでは、気持ちが落ち着かない。
(外の空気でも吸ってくるか)
辺りを見渡すと、雪峰さんの姿が見当たらない。
静かに椅子を戻し、リビングを後にした。
*
屋上の扉を開けた瞬間、冷たい風が頬を切った。
年末の気配を運ぶ、重く澄んだ風。
柵の方へ視線をやると、小さな火種が夜の闇を照らしていた。
隣に並ぶと、雪峰さんが煙とともに深い息を吐き出す。
風と車の音だけが二人の間を流れていく。
「……叔父さんだったんですね?」
「ああ、残念なことにな」
彼は両手を広げ、どうしようもないとでも言うように肩をすくめた。
「じゃあ、叔父さんって呼んだ方が――」
「やめろ。気色悪い」
短く吐き捨てるその調子に、思わず苦笑する。
本当に聞きたいことは別にあるのだが、喉元まで来ては折り返し、また飲み込んでしまう。
「その、大丈夫なのか?」
「大丈夫とは?」
この人の質問はいつも唐突だ。
「さっきの話のことだ」
「もう、大混乱ですよ」
柵に身を預けながら、虚空へと言葉を吐き出す。
「だろうな……」
苦笑がこぼれ、ため息が煙に混じる。
「母が来るとなった時点で、何か予感みたいなものはあったんですけどね。まさか、こんなことだったとは……」
「……」
「俺、どうしたらいいんですかね?」
柵に額を押しつける。
心の迷路に出口は見えない。
「ん~、姉さんや藍とも相談だろうな」
雪峰さんも左手で額を覆い、しばし沈黙した。
「ただ――回り道はもう終わりだ」
声には重さがあった。
「これからは、異能と正面から向き合うことになる。逃げても、背後から必ず追ってくる……これは、そういう類のものだ」
吐き出された煙が、夜空に力強い軌跡を描く。
やはり、避けては通れないということか。
でも、得体の知れない力とどう向き合えばいいのか、皆目見当もつかない。
「ん~……」
「心配するな。そのために俺たちがいる。よほどのことがない限りは、どうにかしてやる」
彼は肩をポンと叩き、煙草を缶に落とした。
「先に戻る。……そんな恰好じゃ風邪引くぞ」
背中が扉に消えるのを見届ける。
駆け抜ける夜風に、思わず身体が震えた。
そういえば、コートを忘れていた。
それだけ心が揺れてるのだろう。
ふと、空を見上げる。
澄み切った夜のキャンバスに、冬の大三角が煌々と輝いている。
赤く燃えるベテルギウス。
蒼い光を放つシリウス。
柔らかく瞬くプロキオン。
変わらぬ星々の輝き。
それはまるで、揺らぐ自分を見下ろすかのようだ。
自分を取り巻く日常は確実に変わり始めている。
その対比に、胸がざわめき、言葉にならない思いが渦を巻く。
雪峰さんも、この景色を同じように眺めていたのだろうか。
冷たく重い扉の取っ手に手をかける。
揺らぐ自分の手の熱と、変わらぬ扉の取っ手の冷たさ。
この感触が、いつもと違うように感じた――そのざわめきだけが胸に強く残った。
 