【第010話】母の面影
2025/10/01
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「なんだか感慨深いものがあるわね」
久川さんが、カウンターの中で小さくつぶやいた。
「何がですか?」
「この店に、君たち親子がそろうってことよ」
そんなに不思議なことだろうか?
「だだ、親子で店に来たってだけですよ」
「まあ、君にとってはそうかもしれないけどさ……生きているのが長くなると、思うところもあるのよ」
そう言って、彼女は自分の額を軽くつついた。
結局、母は仕事を終え次第、Irisに来ることになった。
終業後の片づけと翌日の準備を済ませ、今はそれぞれ作業をしながら、その到着を待っている。
母は精神科医だ。
駅前のクリニックで非常勤医をしている。
自分が知っているのは、それくらい。
過去を含め、母が自分のことを語ることはほとんどない。
父から聞くのは、たいてい父の主観たっぷりののろけ話で、真偽は定かでない。
この店に通い始めてから、知らない母の面影に触れることが増えた。
この空間には、自分の知らない母の記憶が、確かに染みついている。
母のことは知りたい。
でも、知ることで見方が変わってしまうのが、少し怖い。
信じてはいる。
親としての愛情は、確かに感じているからだ。
それでも、母がこの空間、この人たちと交わったとき、どんな化学反応が起こるのか……想像がつかない。
この緊張は、その心境の現れかもしれない。
――チリン。
店内の静寂を破って、ベルの澄んだ音が響く。
黒いロングコートに黒髪を揺らし、背筋の伸びた細身の女性が入ってきた。
入口からカウンター席まで、一切迷いのない足取り。
その席は、いつもなら自分が座っている場所だった。
「ごめんね、急に呼び出しちゃって……」
「構わない」
母は澄んだ声で短く応じる。
「何か飲む?」
「では、ココアを」
久川さんが静かにうなずき、カウンター奥で準備を始めた。
母はバッグから手帳を取り出し、ペンを走らせる。
やがて、器具の音にまじって甘い香りが漂う。
「おまたせ」
ココアの湯気がふわりと立ちのぼり、母は両手でカップを支える。
ひと口含み、そっと目を閉じる。
そして、やさしくソーサーへ戻した。
自宅で見慣れた仕草のはずなのに、今日は一つひとつの動作が印象に残る。
「おいしい」
その一言で、店内の空気が少しやわらぐ。
久川さんも、静かに笑みを返した。
この二人の間には言葉がなくとも通じ合う何かがあるのだろう。
「それで、オムハヤシだっけ?」
「そうなの。お店のメニューに復活させようと思って」
「負担にはならない?」
「今なら、何とかなると思う」
母は少し考え、やがて言った。
「書斎にレシピのノートがあったはず。探してきてもいい?」
「うん」
母はゆっくりと立ち上がり、雪峰さんの横を通りすがる。
「哲也、書斎に入ってもいい?」
「ああ、一緒に行った方がいいか?」
「たぶん大丈夫」
そう言って母は奥の扉へ消えていった。
「母さん、いつもあんな感じなんですか?」
「そうだけど……どうかした?」
「なんだか、今日の母さん、子供っぽく見えます」
久川さんと雪峰さんは顔を見合わせ、目を細めた。
「私、もう見てられないわ……」
そう言うと彼女は涙をこらえるようにうつむき、目元に手を当てた。
雪峰さんも神妙な表情で、それを見つめている。
「もう……いいんじゃないかしら?」
「う~ん……」
雪峰さんは険しい表情で腕を組む。
久川さんはそっと目尻をなでた。
「あなたたちの想いも分かる。……でも、この子は聡いから、そのうち気づくわよ」
(何の話を……?)
二人の会話は、自分だけ聞き取れない言語で進んでいるようだった。
言葉は耳に届いているはずなのに、頭の中をすり抜けていく。
「それに、ここまで事態が進んでいる。もう、この子を遠ざける理由もないでしょう」
久川さんがやわらかくたしなめた。
タイミングを見計らったかのように、カウンター奥の扉がそっと開く。
「まあ、頃合いでしょうね……」
そこへ、母がノートを抱えて戻ってきた。
「姉さん……」
(姉さん!?)
「あくまで、人間の浅知恵にすぎなかったということね」
母は寂しげに笑った。
けれど、そこにはいつもの緊張感はない。
「藍、ありがとう。やっと決心がついたよ」
久川さんはゆっくりとうなずく。
「この子の親として、私が話します」
その表情には、強い決意が宿っていた。
「藍、二階のリビングを借りていいかな?」
「何言ってるの。あなたの家じゃない」
「……そうだったわね」
そして母は、自分の方へまっすぐ向き直った。
「真也」
「?」
「あなたにね、伝えなければならないことがあるの」
その瞳に込められた意味を、自分は受け止められるのだろうか――。
 