【第001話】心の絆
2025/10/01
(……ここは?)
目を開けた先に広がっていたのは、深い闇だった。
見慣れたはずなのに、やはり最初の一瞬はざわつく。
でも、すぐに気持ちを落ち着けた。
(……そうか。彼女の“心界”に呼ばれたんだ)
肌をなでる空気は冷たい。
ただ、これは気温ではなく彼女の心の反映に過ぎない。
思念体の身に寒さなど関係ない――理屈では分かっているのに、肩がひとりでに震えるのは不思議だ。
周囲を意識する。
今日は妙に空気が澄んでいる。
心界特有の圧迫感も、ざわつきもない。
息をするのが楽だ。
(拒絶されていない。むしろ……受け入れられているのか?)
ここに来る前の、あの態度を思えば信じがたい。
不思議と、存在も足元も安定している。
他人の心に踏み込むのは、気分がいいものじゃない。
本来なら避けたい領域だ。
それでも――彼女が呼んだのなら、応えるしかない。
歩き出すと、温かさや冷たさが交互に肌をかすめていく。
想いの断片が近づいては遠ざかり、何かを伝えようとしている。
その度に、胸の内に、細やかな欠片が擦れ合うような痛みが広がる。
歩きながら、彼女の姿を思い浮かべる。
強気で、口は悪くて、俺を振り回してばかりで……なのに、なぜか隣にいることが増えた。
悔しいが、俺は彼女に言い返せない。
いや、本当は――言い返したくないのかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
(……泣き声?)
胸の内が波立つようにざわめいた。
思わず足が早まる。
光が、暗闇の奥に小さく見えた。
近づくにつれて、それは人の形をとっていく。
制服姿の少女が、膝を抱えて座り込んでいた。
(来栖……結月)
言葉が喉元で止まる。
声をかける前に、彼女が顔を上げる。
大きな瞳に溜まった雫が、今にも零れ落ちそうに揺れていた。
彼女はそれを見せまいと、慌てて涙を拭った。
「……なんで、あんたがいるのよ」
それは、問いかけるというよりは、独り言のようだった。
俺は苦笑した。
「なんでだろうな。俺にも分からん」
彼女の隣に腰を下ろす。
沈黙が降りる。
でも、その静けさは不思議と嫌じゃなかった。
「こんなはずじゃなかったのに」
かすれた声に混じる自嘲。
胸の奥に細い棘が触れたようだった。
思わず軽口を叩いた。
「俺と出会ったのが、運の尽きだな」
「なにそれ?」
涙顔がほんの少しだけほころぶ。
それだけで、少し救われた気がした。
「私は……一人で戦っていけるよ」
強がりだ。
分かっている。
声が震えていることが、その証拠だ。
「俺も一緒に戦う」
「……えっ?」
驚いたように目を見開く。
自分でも驚いていた。
声が、自分の意志よりも先に飛び出した。
「だから、俺も一緒に戦わせろ」
言葉にした瞬間、胸の内で、微かな温もりが静かに広がっていく。
「……あんた、そんなこと言う人間だっけ?」
からかうように笑う。
でも、その目は揺れている。
自分でも似合わない言葉だと分かっている。
それでも、伝えたかった。
「俺を頼れ。どんなことがあっても、俺は来栖の味方だ。絶対に俺が守る」
迷いはなかった。
理屈じゃなく、ただそうしたいと強く願った。
彼女はしばらく固まって――そして慌てて俯いた。
「それ……誰にでも言ってるんじゃないでしょうね?」
「まさか。初めてに決まってるだろ」
いつもは強く大きい彼女が、今は誰よりも小さく見えた。
その姿に胸が締めつけられる。
「……そんなこと言ったって、どう頼ればいいか分かんないよ」
彼女はいつも一人で抱えてきた。
誰も信じられなかった。
それが痛いほど伝わってくる。
「何も考えなくていい。ただ寄りかかればいいんだ」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「……迷惑、かけるかもしれないよ?」
「ドンと来い。君からの迷惑なら光栄だ」
言った瞬間、自分で笑ってしまった。
彼女も、泣き笑いのような顔をして――
「……分かったわよ。どうなっても知らないからね」
涙はもう消えていた。
彼女は立ち上がり、手を差し伸べる。
「じゃあ、背中は任せた」
強気な言葉なのに、その手は震えていた。
俺はその震えごと彼女の手を掴んだ。
「任された。姫の気が赴くままに」
返す言葉を待ったが、返事はおろか、うつむいてムスッとしている。
代わりに、握った手がぎゅっと強くなった。
――それは信じ切った強さではなく、ためらいを抱えたままの強がりだった。
だけど、勇気を出して「少しだけ」俺に預けてくれた。
その温もりは、不器用な彼女と未熟な俺を静かにつないでいる。
この温もりを、決して手放さない――ただ、それだけを心に刻んだ。
