【その8】生きるとは? ~人生の永遠の問い、生きていくとは~
2025/10/01
生きるとはいったい何だろうか?
これもまた、人生で一度は考えたことがある方が多いのではないだろうか?
私たちは、どういうわけだか、この世に生を受け、今この瞬間も生きている。
みんな、日々、様々な思いを抱え、生きている。
これは、紛れもない事実だ。
ただ、私たちの生きる時間は有限だ。
いつかは死ぬ。
私は、正直、生きることも、死ぬことも、意味合いとしては同じなのではないかと思っている。
生きるということは、死んでいくことである。
死んでいくということは、生きるということである。
どちらも同じである。
死ぬその時まで、意識というものがあるだけである。
ただ、死は考えても仕方がない。
その時には何も感じなくなってしまうのだから。
死の先に、自分はいない。
だから、死後を考えることは、時間の無駄である。
そもそも、私たちは、長くも短い、この一生をどう生きていくかで精一杯だ。
ありもしない死後を考えるより、生きている今これからを、少しでも良くしようと考える方が建設的だ。
そして、「なぜ生きるのか?」という問いも同様である。
生きることに理由などない。
仮に、生きる理由などあったとしたら、つら過ぎて生きてはいけない。
人は生きる意義を求めがちだ。
しかし、物語の主人公のように、生まれた時から、何かしらの運命を背負っていたとしたら?
これは、人生の選択肢が限りなく、狭くなることだろう。
そうなったら、そうなったなりに楽しもうと考える私でさえ、それはつらい。
私は、自分で選択肢を作っていきたし、自分で選びたい。
この選択肢が限られた状態というのは、うつの時にも陥りやすい。
前回、「うつは、素の自分と理想の自分のギャップが大きい状態」という結論に至った。
この時には、理想の自分という重厚な仮面や鎧が形成されている状態であり、それらが思考の殻にもなっている。
思考は、その殻の中で停滞し、自分自身へ与える選択肢も限られたものとなる。
そして、いつしか選択肢はなくなり、これしかないと思うようになる。
自分に選択肢を与えられない、選ぶことができないという状態は、思考の閉塞感を強く認識させる。
生きる意義などあろうものなら、生まれた時からこの状態ということになる。
正直、私は耐えられる気がしない。
人生は選べるからこそ、面白い。
ただ、自分の人生の選択肢は、誰かが与えてくれるわけではない。
自分で考えて、行動して、自分でその選択肢を作り出していく必要がある。
私は、うつ病になった時に、特に痛感したのは、この部分であった。
私は、自分の未来への選択肢を作り出す努力をしていたのか?と。
うつ病になる以前の私は、忙しい、時間がないと言い訳をして、その努力を怠っていた。
その結果として、人生の選択肢が枯渇するのは当然だ。
今から振り返れば、理想ばかりが高く、選択肢を増やす努力をしていなかった私が、うつ病になったのは、必然だったと思う。
うつ病になる原因は、人それぞれあるが、私に関していえば、すべての原因は私自身にあった。
うつ病になる以前の私は、必死にはやっていたとは思うが、生きるということについては放棄をしていたように感じる。
当時も、今回のように「生きるとは?」というお題を考えていたと思う。
しかし、当時はいくら考えても答えは出なかった。
今回、「生きる」というお題を取り上げるに当たっても、答えが出ないのではという不安が頭をよぎった。
ただ、数年前の私と今の私とでは、一つ大きな違いがある。
今の私には、明確に、生きているという実感がある。
そこに、ヒントがあると考え、このお題に臨んでいる。
では、なぜ、今の自分は、生きているという実感があるのか?ということだ。
それは、自分が用意した選択肢を、自分が納得した上で選択して、実行しているからだと考えている。
その行動により行きつく結果に、失敗も成功もなく、単なる結果として受け止めることができる。
そして、その結果を踏まえて、次はどうしていこうかという流れにつながっている。
当然、いかなるときも、選択肢を増やす方法を考え、それをすぐに行動に反映する。
このような地道な積み重ねが、生きる実感へとつながっているように感じる。
まあ、この生きる実感というのも、人それぞれだと思う。
ただ、その実感には、自分がそうしたいことへの何かしらの努力があるような気がしている。
何かをすることで、生きていることを実感できるのならば、その何かをするための時間を確保するための努力をしていたりもすると思う。
そして、その生きる実感をする何かというのは、おそらく、素の自分が求めていることなのではないだろうか?
素の自分がやりたいことを、選択肢として用意して、そこから選んで、行動する。
やりたいことができているという実感があれば、素の自分は充実感を得る。
この充実感こそが、生きている実感なのかもしれない。
ただ生きるのも人生かもしれないが、どうせ生きるのなら充実感を感じて生きていきたい。
しかし、人は人の中で生きており、かつ、人間以外の物理的な状況もあり、自分の望むようなことをできないことが多い。
これらは、「しがらみ」とでもいおうか、現代においては、誰しもが抱えている枷である。
このしがらみが悪いという気はない。
それでも、すべてが必要なものなのかといえば、疑問符が浮かぶ。
本当に、そのしがらみは必要なのか?と。
だから、時には、しがらみの棚卸しをして、解放していく作業も必要なのだと思う。
ここで誤解してほしくないのは、「素の自分が望むことをする=自分勝手に振る舞う」ということではない。
理性の回でも書いたように、状況と折衷することは必要だ。
素の自分を無視することがなくなり、少しでも望むことが取り入れられたなら、それも充実感を生む要因となる。
人生において、0:100はない。
重要なのは、そのバランスである。
そのバランス感覚が、充実感を生み、不安を緩和していくことにもつながっていく。
そして、その自分の中での地道な探求と調整作業が、自分自身を救うことにもなるのだ。
「素の自分が望むことを実現するために、自分で人生の選択肢を増やす行動をしていく」
これこそが、生きるということなのではないだろうか?
人生は、人それぞれだ。
そして、その人生は、誰のものでもなく、あなただけのものだ。
どうせ生きるのなら、自分が納得できる人生を歩んでいってほしい。
次回は、生きることと切っても切り離せない「欲求」について考えていこうと思う。
