【その6】世界とは? ~私たちが生きる世界の正体~
2025/10/01
世界とはいったい何だろうか?
私たちは、この世界を生きている。
ただ、この「世界」と認識しているものはいったい何だろうか?
実体があるような?ないような?
あなたは、「世界とは何ですか?」と聞かれたら、何と答えるだろうか?
私は、現状、説明できない。
だからこそ、一つずつ考えてみようと思う。
まず、この世界という言葉であるが、どうやら1つのことを指しているわけではなさそうだ。
「こちらの世界では」
「あちらの世界では」
「世界が違う」
このような形で、言葉の表現だけで見ても、いろいろな世界がありそうだ。
どうやら、立場や状況によって、認識する世界は異なっているらしい。
そして、現実の実体があるものだけではなく、概念も含まれている。
概念が含まれているとなると、同じ「世界」を指す会話をしていたとしても、人によってその「世界」の認識は異なってくると思われる。
つまり、私たちが認識している「世界」は人によって違うということだ。
これが、果たして、どういうことなのか?ということを考えていくことが、今回の本題である。
あなたは、「世界は自分の外にあるのか?それとも、内にあるのか?」と聞かれたら、どう答えるだろうか?
外にあるようにも感じるし、内にあるようにも感じる。
ただし、私たちが、現実の中の実体を認識するのは、身体感覚による認知をしてからである。
認知をして、情報が入ってからでないと、「世界」は形成されない。
ということは、「世界」は私たちの内側にあるものなのではないだろうか?
私たちは、あらゆる事象を身体というインターフェイスを介して認識している。
そこから、感情が生まれ、認知し、思考の中に情報としてインプットされる。
そして、その認知情報により形成されるのが、私たちが認識している「世界」というわけだ。
誰一人として、同じ思考を持ち合わせていないので、世界は人によって違うものとなる。
この「世界」もまた、あなただけのものである。
ただ、この世界を形成しているものが、認知情報であることを忘れてはならない。
私は、人によって、いろいろな「世界」があっていいと思っている。
しかし、それにより形成された世界が、不安しか生まないということはあってほしくない。
決して、すべてを楽観的に捉えればいいと言っているわけではない。
事実に近い情報で、世界を形成してほしいということだ。
生きていると「世界から歓迎されていないのでは?」とふと思うことがある。
どうして、こんなにも、つらく苦しいのだと。
ただ、ここで感じる世界を形成しているのも自分自身なのだ。
認知は、精神状況も含めた体調の影響を大きく受ける。
体調が悪い時というのは、認知情報にネガティブな感情が結びつきやすい。
このような状態で、蓄積された認知情報をもとに、世界が形成されてしまったら。
それは、とても苦しい世界になってしまうかもしれない。
世界に、良いも悪いもないのだが、真実に近い世界ではあってほしいと思う。
この真実に近い世界を形成するために必要となるのが、これまでに考えてきた「認知情報の精度を上げる」ことなのだ。
認知情報の精度が上がれば、世界は真実に近くなり、悲観も楽観も少なくなる。
それでも、人間には、不安も生まれるし、期待も生まれる。
ただ、その不安や期待もゴーストではなくなるということだ。
私は、過度な不安や期待をゴーストと呼んでいる。
理由は、真実と照らし合わせれば、発生する確率が限りなく低いことが分かるからだ。
繰り返しになるが、認知した情報には、その時の感情が紐づく。
そして、その感情の内容は、精神状況も含めた体調により、湧き方が異なってくる。
つまり、その時々で湧く感情というのは、一定ではないのだ。
この湧く感情が一定ではないということが、情報を歪めてしまう原因である。
そして、紐づいた感情は、不安や期待を生む。
世界に対する印象は、この辺りの影響が大きいのだと思う。
ただ、感情は悪者ではない。
感情も生物としての真実であるし、理性も人間としての真実であるのだ。
生存を追求する感情、論理を追求する理性。
フィールドや性質が違うだけで、どちらも真実なのだ。
では、このエッセイで追いかける真実は何なのか?ということだ。
それは、感情と理性の間にある真実である。
感情を突き詰めても苦しくなるし、理性を突き詰めても苦しくなる。
感情を突き詰めると、理性が拒否反応を示す。
理性を突き詰めると、感情が拒否反応を示す。
両方とも真実ではあるのだが、どちらかのみを選択しようとすると犠牲が大きくなる。
感情のみを取ろうとすれば、その後の事態や感情の収拾に悩むことになる。
理性のみを取ろうとすれば、感情が存在しない殺伐としたものとなってしまうだろう。
つまり、真実ではあるのだが、自分にとっての真実ではない。
選択をするということは、何かを捨て、何かを拾うということである。
全てを拾えるわけではない。
選択をする時には、捨てる覚悟と拾う覚悟をする必要がある。
その覚悟が持てる、納得ができる答えにたどり着くことが、真実を追求するということである。
感情の面からも納得できる、理性の面からも納得できる。
そんな答えにたどり着けたのなら、それが真実だと私は思う。
そして、その真実があるのが、感情と理性の間の領域である。
感情と理性を行き来しながら、考え続け、たどり着ける境地である。
その境地においても、不安や期待は存在するが、たどり着いた時には、あなたはその正体に気づいている。
だから、その対処もできる。
その境地にたどり着いて世界が構築された時、あなたの世界の見え方はきっと変わるはずだ。
世界自体を改変することはできないが、構成する要素の精度を上げることで、世界は変わっていく。
なぜなら、あなたが認識している世界は、あなただけのものなのだから。
「あなたが気づくと世界は変わる」というフレーズは、このことを表している。
最後に、類似する言葉で、社会というものがある。
世界が個人のものだとするならば、社会はあらゆる世界の交差点である。
この人の世界、あの人の世界が交差することで、インスピレーションが生まれる。
そして、あなたの世界はさらなる拡がりを見せることだろう。
「世界とは、自身の認知情報をもとに構成される、内面環境である。」
次回は、世界の闇「うつ」について考えていこうと思う。
