アルファエイトスタジオのテーマ

Novels

【エッセイ】不安と戦うあなたへ ~悩める現代人の哲学の道~

【その6】世界とは? ~私たちが生きる世界の正体~

世界とはいったい何だろうか?

私たちは、この世界を生きている。
ただ、この「世界」と認識しているものはいったい何だろうか?

実体があるような?ないような?
あなたは、「世界とは何ですか?」と聞かれたら、何と答えるだろうか?

私は、現状、説明できない。
だからこそ、一つずつ考えてみようと思う。

まず、この世界という言葉であるが、どうやら1つのことを指しているわけではなさそうだ。
「こちらの世界では」
「あちらの世界では」
「世界が違う」

このような形で、言葉の表現だけで見ても、いろいろな世界がありそうだ。
どうやら、立場や状況によって、認識する世界は異なっているらしい。

そして、現実の実体があるものだけではなく、概念も含まれている。

概念が含まれているとなると、同じ「世界」を指す会話をしていたとしても、人によってその「世界」の認識は異なってくると思われる。
つまり、私たちが認識している「世界」は人によって違うということだ。

これが、果たして、どういうことなのか?ということを考えていくことが、今回の本題である。

あなたは、「世界は自分の外にあるのか?それとも、内にあるのか?」と聞かれたら、どう答えるだろうか?

外にあるようにも感じるし、内にあるようにも感じる。

ただし、私たちが、現実の中の実体を認識するのは、身体感覚による認知をしてからである。
認知をして、情報が入ってからでないと、「世界」は形成されない。

ということは、「世界」は私たちの内側にあるものなのではないだろうか?

私たちは、あらゆる事象を身体というインターフェイスを介して認識している。
そこから、感情が生まれ、認知し、思考の中に情報としてインプットされる。

そして、その認知情報により形成されるのが、私たちが認識している「世界」というわけだ。

誰一人として、同じ思考を持ち合わせていないので、世界は人によって違うものとなる。
この「世界」もまた、あなただけのものである。

ただ、この世界を形成しているものが、認知情報であることを忘れてはならない。

私は、人によって、いろいろな「世界」があっていいと思っている。
しかし、それにより形成された世界が、不安しか生まないということはあってほしくない。

決して、すべてを楽観的に捉えればいいと言っているわけではない。
事実に近い情報で、世界を形成してほしいということだ。

生きていると「世界から歓迎されていないのでは?」とふと思うことがある。
どうして、こんなにも、つらく苦しいのだと。

ただ、ここで感じる世界を形成しているのも自分自身なのだ。

認知は、精神状況も含めた体調の影響を大きく受ける。
体調が悪い時というのは、認知情報にネガティブな感情が結びつきやすい。

このような状態で、蓄積された認知情報をもとに、世界が形成されてしまったら。
それは、とても苦しい世界になってしまうかもしれない。

世界に、良いも悪いもないのだが、真実に近い世界ではあってほしいと思う。

この真実に近い世界を形成するために必要となるのが、これまでに考えてきた「認知情報の精度を上げる」ことなのだ。
認知情報の精度が上がれば、世界は真実に近くなり、悲観も楽観も少なくなる。

それでも、人間には、不安も生まれるし、期待も生まれる。
ただ、その不安や期待もゴーストではなくなるということだ。

私は、過度な不安や期待をゴーストと呼んでいる。
理由は、真実と照らし合わせれば、発生する確率が限りなく低いことが分かるからだ。

繰り返しになるが、認知した情報には、その時の感情が紐づく。
そして、その感情の内容は、精神状況も含めた体調により、湧き方が異なってくる。
つまり、その時々で湧く感情というのは、一定ではないのだ。

この湧く感情が一定ではないということが、情報を歪めてしまう原因である。

そして、紐づいた感情は、不安や期待を生む。

世界に対する印象は、この辺りの影響が大きいのだと思う。

ただ、感情は悪者ではない。
感情も生物としての真実であるし、理性も人間としての真実であるのだ。

生存を追求する感情、論理を追求する理性。
フィールドや性質が違うだけで、どちらも真実なのだ。

では、このエッセイで追いかける真実は何なのか?ということだ。

それは、感情と理性の間にある真実である。

感情を突き詰めても苦しくなるし、理性を突き詰めても苦しくなる。
感情を突き詰めると、理性が拒否反応を示す。
理性を突き詰めると、感情が拒否反応を示す。

両方とも真実ではあるのだが、どちらかのみを選択しようとすると犠牲が大きくなる。
感情のみを取ろうとすれば、その後の事態や感情の収拾に悩むことになる。
理性のみを取ろうとすれば、感情が存在しない殺伐としたものとなってしまうだろう。

つまり、真実ではあるのだが、自分にとっての真実ではない。

選択をするということは、何かを捨て、何かを拾うということである。
全てを拾えるわけではない。
選択をする時には、捨てる覚悟と拾う覚悟をする必要がある。

その覚悟が持てる、納得ができる答えにたどり着くことが、真実を追求するということである。

感情の面からも納得できる、理性の面からも納得できる。

そんな答えにたどり着けたのなら、それが真実だと私は思う。

そして、その真実があるのが、感情と理性の間の領域である。

感情と理性を行き来しながら、考え続け、たどり着ける境地である。

その境地においても、不安や期待は存在するが、たどり着いた時には、あなたはその正体に気づいている。
だから、その対処もできる。

その境地にたどり着いて世界が構築された時、あなたの世界の見え方はきっと変わるはずだ。

世界自体を改変することはできないが、構成する要素の精度を上げることで、世界は変わっていく。

なぜなら、あなたが認識している世界は、あなただけのものなのだから。

「あなたが気づくと世界は変わる」というフレーズは、このことを表している。

最後に、類似する言葉で、社会というものがある。
世界が個人のものだとするならば、社会はあらゆる世界の交差点である。

この人の世界、あの人の世界が交差することで、インスピレーションが生まれる。
そして、あなたの世界はさらなる拡がりを見せることだろう。

「世界とは、自身の認知情報をもとに構成される、内面環境である。」

次回は、世界の闇「うつ」について考えていこうと思う。

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