アルファエイトスタジオのテーマ

Novels

【エッセイ】不安と戦うあなたへ ~悩める現代人の哲学の道~

【その5】理性とは? ~真実を照らす理性との向き合い方~

私は今、デスクの前で頭を抱えている。

どういうわけだか、このお題を考えようとすると、頭の中から言葉が消えてしまうのだ。

・・・。

理性とはいったい何だろうか?

・・・。

このような状態で数日が経過している。
毎回悩むが、今回は特に悩ましい。

ただ、その理由も少しずつ見えてきた。

理性は、存在自体がとても儚い。
本当に理性というものが存在しているのか?とさえ思ってきている。

理性はある。
あると信じたい。

ただ、理性へとつながる言葉が出てこない。

これは、私の中に理性という成分がないということなのか?
否定したいが、それを断言する言葉も出てこない。

このままではいけない。
少しずつでもいいから、輪郭を掴まなければ。

ひとまず、お題を周囲から対比する形で、正体を探していこうと思う。

これまで、不安、思考、認知、感情といった自分では意識的にコントロールできないものを考えてきた。
今回は、これらとは逆に、意識をしないと持つことができないものである。

生物的感覚の行きつく先が感情で、意識的感覚の行きつく先が理性である。

理性と感情は、常にせめぎ合っている。
感情の海の波が、理性の防波堤に押し寄せる。

感情の波は時に苛烈で、理性の防波堤が崩壊することもある。
その度に、打ちひしがれ、無力感に苛まれるが、それでも、それに負けまいと再度、理性の防波堤を築く。
人生はこれの繰り返しである。

理性は行くなと言っていても、感情は行けと言っていることもある。
逆も然り、理性は行けと言っていても、感情は行くなと言っていることもある。
前者の場合は行く選択をする可能性が高いし、後者の場合は行かない選択をする可能性が高い。
この辺りにも、感情と理性の力関係が表れている。

生物の本能に近い機能である感情は、身体全体に作用するため、判断にも大きな影響を与える。
個人的には、感情優位の状態で判断した時は、望ましくない結果になることが多い。
感情による選択は、生物としては正解なのかもしれないが、人間としては不正解なのかもしれない。

感情は生物の生存本能を体現する存在である。
命を守る、命をつなぐ、命を残すということに全力で向かっていく。
ただ、人間においては、その生存本能に任せた言動をしてしまうと人間関係に亀裂を生んでしまうことが多い。

理性による判断と言動が大切であるということは、痛いほど分かっている。
それでも人間は、感情が優位の状態では、感情による判断をしてしまう。
どんなに強固な理性の防波堤を築いたつもりでいたとしてもだ。

後悔を生む一方で、感情を否定したくないという自分もいる。
感情もまた一つの真実であるし、理性もまた真実である。
まさに、せめぎ合いである。

理性は、時に、脆く、そして、儚い存在である。
ただ、理性は真実にたどり着くための希望でもある。

改めてになるが、このエッセイは「不安との向き合い方」を考えていくものである。
不安を緩和あるい解消していくためには、自分で真実を模索し、たどり着く必要がある。
そして、その真実にたどり着くためには理性が必要である。

生命としての真実は感情の中にあるが、人間として真実は理性の中にある。

今回は、これらの性質を踏まえた上で、理性というものを考えていくということなのだ。

まずは、理性がある状態とは何か?ということを考えてみる。

パッと思い浮かぶのは、現在の自分を第3者目線で見れている状態。
あるいは、自分が思考した内容について、複数の視点から意見が出せる状態。

つまり、主観の一人称視点だけではない状態といえるだろう。
この状態で思考し、判断して、言動をすることが理性がある状態であると考えられる。

自分の中に別の見方を提案する人格が2~3人いるような感じであろうか。
個人的には、主観以外に2人は欲しいと考えている。

1人だと対立して平行線になる未来しか見えない。
もう一人いてくれると、その間の折衷案を出してくれそうな感じはする。

そして、この折衷案を出してくれそうな3人目の人格の存在が大切なような気がしている。
1人目は感情、2人目もその正反対の感情といった形で両極端だ。
このどちらを取っても、自分も他人も負担が大きくなりそうだ。

そこで登場するのが、この3人目以降の人格だ。
少なくとも、1人目や2人目より冷静な意見を持っている。

私は、この3人目以降の人格こそ、理性なのではないかと考えている。

言葉足らずの部分を補足すると、ここでいう人格は思考のフェーズを表している。

思考は、まず感情から始まり、感情優位の結論を出す。
次に、それを真っ向から否定した別の感情の結論を出す。
そして、その次に、どちらの結論にも疑問を持ち、情報を見直し、捉えなおすという段階がくる。

この思考の3段階目こそ、3人目の人格というわけだ。

しかし、この3段階目がゴールではない。
3人目の人格が結論を出すと、さらに、それに疑問を投げかけるものが現れる。

これを繰り返すことで、認知情報が精査されていく。
そして、この何層に及ぶ思考の過程こそが、真実に近付くということである。

ただ、それは思考の深みにはまっているだけでは?という疑問も聞こえてくる。
それはその通りで、ただ考えているだけでは思考の深みにはまって停滞してしまう。

ここにもポイントがある。
自分自身で、意識的に、思考の視点を移動することが大切である。
同じ視点で考え続けていると思考の深みにはまる。
意識的に考える視点を変えていくことが思考を進めることにつながるのだ。

どうしても、これ以上の視点を生めない時は、他人にそれとなく意見をもらう。
できることなら、偏りを減らすために何人かに聞けるとさらによい。
そうすることで、新たな視点と人格が自分の中に生まれる。

そして、認知情報の精度はさらに上がる。
つまり、真実に近付くということだ。

やっと、理性について少し輪郭が見えてきた気がする。
ここで、理性を定義してみようと思う。

「理性とは、自分の中に複数の人格を生み出していき、認知情報を精査していく過程そのものである。」

おそらく、理性があると感じる人は、自身の中に複数の人格を持てている人だと思う。
かつ、そういう人は、その人格たちの立場上の偏りが少なく、バランスよく配置されているとも思う。

そうは言っても、すぐにそれはできないと思う方も多いと思う。
実際、私もそのように感じている。

でも、大丈夫だ。
すぐにできることもある。

それは、認知してから、行動に移すまでの時間を置くことだ。

気付いている方もいると思うが、理性を持つために一番大事なことは、時間を置くことだ。
仮に、1秒でも間を置くことができたのなら、人間の思考は1~2回転くらいはする。

相手から言葉を聞いた時に、パッと浮かんだことを言葉にするのではなく、一旦飲み込んで、1~2秒置いてから言葉にする。
たった1~2秒置くだけでも、言葉に理性が含まれるようになる。

これだけでも、相手を傷付けることは減るし、自分が後悔を背負うことも少なくなる。
このような行動を地道にすることは、いらぬ不安が発生することを防ぐことにもつながる。

さらにいえば、感情ですらも冷静に見ることができたのなら、それは生きる上で重要な情報となり得る。
直観は、第6感とも呼ばれるが、これは理性の中にある情報と感情の中にある情報が共鳴した時に生まれるものなのではないだろうか?
理性を磨くことが、第6感を鍛えることにもつながるのかもしれない。

最後に、「明鏡止水」という言葉がある。
曇りのない鏡と静かな水のように、邪念がなく、澄み切った静かな心境を表す言葉だ。

理性とは、そのような心境の中に存在するものだとも思う。

私自身も、人生のテーマの一つとしているが、そうできないことが多い。
できていないからこそ、テーマであるのだけれど。

今回は長くなってしまった。
理性については、また考える必要がありそうだ。

次回は、私たちが認識している「世界」について考えていこうと思う。

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