アルファエイトスタジオのテーマ

Novels

【長編小説】君の闇、光へと通ず ~現代異能探偵青春譚~

【第010話】母の面影

「なんだか感慨深いものがあるわね」

久川さんが、カウンターの中で小さくつぶやいた。

「何がですか?」

「この店に、君たち親子がそろうってことよ」

そんなに不思議なことだろうか?

「だだ、親子で店に来たってだけですよ」

「まあ、君にとってはそうかもしれないけどさ……生きているのが長くなると、思うところもあるのよ」

そう言って、彼女は自分の額を軽くつついた。

結局、母は仕事を終え次第、Irisに来ることになった。
終業後の片づけと翌日の準備を済ませ、今はそれぞれ作業をしながら、その到着を待っている。

母は精神科医だ。
駅前のクリニックで非常勤医をしている。

自分が知っているのは、それくらい。
過去を含め、母が自分のことを語ることはほとんどない。
父から聞くのは、たいてい父の主観たっぷりののろけ話で、真偽は定かでない。

この店に通い始めてから、知らない母の面影に触れることが増えた。
この空間には、自分の知らない母の記憶が、確かに染みついている。

母のことは知りたい。
でも、知ることで見方が変わってしまうのが、少し怖い。

信じてはいる。
親としての愛情は、確かに感じているからだ。

それでも、母がこの空間、この人たちと交わったとき、どんな化学反応が起こるのか……想像がつかない。
この緊張は、その心境の現れかもしれない。

――チリン。

店内の静寂を破って、ベルの澄んだ音が響く。

黒いロングコートに黒髪を揺らし、背筋の伸びた細身の女性が入ってきた。
入口からカウンター席まで、一切迷いのない足取り。
その席は、いつもなら自分が座っている場所だった。

「ごめんね、急に呼び出しちゃって……」

「構わない」

母は澄んだ声で短く応じる。

「何か飲む?」

「では、ココアを」

久川さんが静かにうなずき、カウンター奥で準備を始めた。
母はバッグから手帳を取り出し、ペンを走らせる。

やがて、器具の音にまじって甘い香りが漂う。

「おまたせ」

ココアの湯気がふわりと立ちのぼり、母は両手でカップを支える。
ひと口含み、そっと目を閉じる。
そして、やさしくソーサーへ戻した。

自宅で見慣れた仕草のはずなのに、今日は一つひとつの動作が印象に残る。

「おいしい」

その一言で、店内の空気が少しやわらぐ。
久川さんも、静かに笑みを返した。

この二人の間には言葉がなくとも通じ合う何かがあるのだろう。

「それで、オムハヤシだっけ?」

「そうなの。お店のメニューに復活させようと思って」

「負担にはならない?」

「今なら、何とかなると思う」

母は少し考え、やがて言った。

「書斎にレシピのノートがあったはず。探してきてもいい?」

「うん」

母はゆっくりと立ち上がり、雪峰さんの横を通りすがる。

「哲也、書斎に入ってもいい?」

「ああ、一緒に行った方がいいか?」

「たぶん大丈夫」

そう言って母は奥の扉へ消えていった。

「母さん、いつもあんな感じなんですか?」

「そうだけど……どうかした?」

「なんだか、今日の母さん、子供っぽく見えます」

久川さんと雪峰さんは顔を見合わせ、目を細めた。

「私、もう見てられないわ……」

そう言うと彼女は涙をこらえるようにうつむき、目元に手を当てた。
雪峰さんも神妙な表情で、それを見つめている。

「もう……いいんじゃないかしら?」

「う~ん……」

雪峰さんは険しい表情で腕を組む。
久川さんはそっと目尻をなでた。

「あなたたちの想いも分かる。……でも、この子は聡いから、そのうち気づくわよ」

(何の話を……?)

二人の会話は、自分だけ聞き取れない言語で進んでいるようだった。
言葉は耳に届いているはずなのに、頭の中をすり抜けていく。

「それに、ここまで事態が進んでいる。もう、この子を遠ざける理由もないでしょう」

久川さんがやわらかくたしなめた。

タイミングを見計らったかのように、カウンター奥の扉がそっと開く。

「まあ、頃合いでしょうね……」

そこへ、母がノートを抱えて戻ってきた。

「姉さん……」

(姉さん!?)

「あくまで、人間の浅知恵にすぎなかったということね」

母は寂しげに笑った。
けれど、そこにはいつもの緊張感はない。

「藍、ありがとう。やっと決心がついたよ」

久川さんはゆっくりとうなずく。

「この子の親として、私が話します」

その表情には、強い決意が宿っていた。

「藍、二階のリビングを借りていいかな?」

「何言ってるの。あなたの家じゃない」

「……そうだったわね」

そして母は、自分の方へまっすぐ向き直った。

「真也」

「?」

「あなたにね、伝えなければならないことがあるの」

その瞳に込められた意味を、自分は受け止められるのだろうか――。

TOP
error: 選択できません