【その9】欲求とは? ~生きる衝動、欲求の正体~
2025/10/01
欲求とはいったい何だろうか?
突然、衝動的にやってくる、人間を突き動かす何かといった感じだろうか。
個人的には、厄介な存在である。
なぜかといえば、理性を封じ込め、行動が感情優位になってしまうからである。
ここまでの回でも書いたように、感情優位の行動は後悔を生むことが多い。
私にとっての欲求は、自分の中に存在するトラブルメーカーである。
ただ、欲求もまた、不安と同じように何かを自分自身へ知らせる存在なのではと、最近は思うようになった。
というのも、強い欲求が発生する時というのは、ストレスを強く感じている時でもあるからだ。
逆に、ストレスをそれほど感じていない時は、強い欲求は発生しない印象がある。
このような感覚もあり、ストレスと欲求は比例関係にあるのでは?と考えている。
しかし、欲求が強く出ている時は、思考がその欲求に支配されており、欲求が発生した原因には目が行きにくい。
欲求に従って、何かを達成したとしても、満足感は一瞬だけで、また、ストレスを強く感じる状態に戻ってしまう。
つまり、欲求に従ったとしても、自分自身が抱える課題は解決されていないということだ。
私が、欲求を厄介だと考えるのは、この部分である。
自分を惑わし、自分自身が抱える本質的な課題から目を背けさせる。
今回はこのような性質を持つ欲求について考えていこう。
まずは、ストレスと欲求の関係性について見ていく。
①ストレスと欲求は作用・反作用の関係にある。
ストレスが作用すれば、反作用として欲求が発生する。
②ストレスの大きさと欲求の強さは比例関係にある。
ストレスが大きい時は欲求も強くなる。
欲求が強く出ている時の思考は感情優位になり、理性が薄くなる。
③ストレスと欲求の内容に直接的な因果関係はない。
どんな内容のストレスを受けたとしても、個人差はあるが、欲求の内容には一定の傾向がある。
これらは、私が考える、ストレスと欲求の関係性である。
ここで、一つ疑問が生まれる。
それは、不安とストレスはどう違うのかということだ。
私は、似て非なるもののように感じている。
なぜなら、ストレスは強弱こそあるが、生きている時は常に感じているものだからだ。
気温の熱い、寒いだけでもストレスは感じる。
不安は思考に起因するものであるが、ストレスは身体機能に起因するものである。
ただ、不安がストレスになることもある。
思考から生まれた不安は、感情と強く結びついている。
不安と結び付いた感情は、身体機能へと作用する。
そして、感情が身体機能へと作用した時に、ストレスを感じるようになる。
つまり、強い不安は、強い感情を呼び起こし、身体機能へと作用し、ストレスを生み出すということだ。
不安とストレスは性質的に異なるものであるが、間接的に関係性はある。
さらにいえば、すべてのストレスの原因が不安に起因するものではない。
だから、不安とストレスは切り分けて考えていく必要があるということだ。
冒頭で、欲求もまた、自分自身へ何かを知らせるサインなのではないかと書いた。
では、欲求として現れたサインは何を知らせようとしているのだろうか?
これは、欲求を生む要因となった、ストレスの内訳では?と考えている。
少し話をシンプルにすると、欲求とストレスというのは、それをため込む器の名称だと考えてほしい。
欲求として現れる内容は、ストレスの内容に関わらず、ほぼ一定であり、ストレスの量により強さだけが変化する。
ただ、ストレスの器にたまるストレスの内容には色々なものがある。
単純な身体的なストレスから、不安に起因するストレスまで様々である。
私は、この「ストレスの内訳を精査し、必要な対処をしなさい」というのが、欲求が自分へ知らせたいサインなのではと考えている。
欲求として現れる内容もまた、素の自分が求めていることでもある。
しかし、欲求の内容だけを見て、自分が望むことを掘り下げていくことは困難を極める。
なぜなら、欲求として現れている内容は、今の自分ができる範囲内のことだけである。
仮に、今の自分が実現できていないことに対してストレスを感じていた場合は、欲求の内容を実行しても、ストレスは解消されないという事態が発生する。
何なら、欲求のままに行動して、後悔を生むことさえある。
つまり、「欲求とは、ストレスの反作用であり、素の自分が望むことの一部を反映した衝動」である。
では、私たちはどうすれば、欲求とうまく付き合っていけるのだろうか?
一ついえることは、欲求が現れた時は「あえて立ち止まり、時間を置くこと」が必要だと思う。
欲求が強く出ている時は感情優位ではあるが、時間を置くことで、思考を理性のプロセスへ持ち込む。
私は、欲求の気配を感じたら、一先ず、やりたいことリストにメモだけ残している。
そして、1日以上置いてから、そのメモを再度見る。
そうすると、ほとんどは、これはいらないとなる。
時間を置いた段階では、理性が優勢となっており、ストレスや不安も含めて、俯瞰して物事を見れるようになっている。
メモで欲求の内容を事象として認知して、ストレスや不安との因果関係も考えることができる。
このことからも、何事においても、理性のプロセスが大事ということを痛感する。
そして、「時間が解決してくれる」という言葉が、あながち間違いではないということにも気づかされる。
欲求は厄介な存在でもあるが、素の自分の望みを気づかせてくれるヒントでもある。
大切なのは、目に見える欲求の内容に惑わされずに、その根っこにあるストレスの原因に目を向けられるかである。
そのストレスの真因を解消するために、行動をし始めると欲求は落ち着いていく。
何かと急かされる現代であるが、あえて時間を置く決断も時には必要ではないだろうか?
次回は、誰しもが忘れがちになる「誠実」について考えていこうと思う。
